<舞台・イベント> *「ピノ学園」2003.9.23 *「センゴクプー」2003.05.12 *シブヤから遠く離れて2004.03.20・21 |
私の中に去来したもの。 「ワカラナイ、ワカラナイ」 見終わった後、ずっと、心の中では、この言葉が渦巻いていた。 見終わった後、とにかく悔しかった。 自分自身の理解力のなさ、思考力のなさ、感受性の鈍さ。 バカな自分が、ものすごく嫌だった。 自分の頭の悪いことを悔やんだ。 もっと理解力があったら。もっと感受性が豊かだったら。もっと、本を読んでいたら。もっと舞台を見ていたら。 もっともっと・・・・ 舞台を見終わってから、1週間たった。 私の中に今ある言葉は、「ワカラナイ」ではなく、「ツナガラナイ」。 「事実」として確実につかみ取れたのは、ナオヤがケンイチ君を殺したということ。 ナオヤはケンイチ君を刺した。 ケンイチ君は、バルコニーから落ちた。 ・・・いや、もしかしたら、これも、「事実」ではないかもしれない。 ナオヤの妄想かもしれない。 ナオヤなんて存在しないのかもしれない。 やっぱり、ワカラナイ。 つながらないし、わからない。 マリーは、生きていたのか。マリーは存在したのか。 アオヤギも、フナキも、ハシも(笑)・・・ナオヤも。 全ての人が、存在していたのか。存在していなかったのか。 幽霊なのか人間なのか。 みんな正気だったのか。みんな狂気だったのか。 おばあさんって誰? 解釈できるほど、私には実感できる目に見える関係が理解できなかった。 舞台にいる人間関係が、わからない。 つながらない。 時間も人も。言葉も。 つながっているようで、歪(いびつ)なつながり。 きちんとつなげようとすると、どこかで無理が生じて崩れてしまう。 ひとつひとつにものすごく大きな意味があるようで、全く意味がないような気もした。 トシミはなぜ方言を喋らないのか。 ナオヤは何故、手をつかまれることにあんなにも恐怖したのか。 ナオヤのバックにはなぜタオルが入っていたのか。 なぜ誕生日プレゼントが葡萄なのか。 香典に3万は多すぎだろ。 いろいろ。いろいろつながらない。 でも、1週間反芻して、気がついたこと。
あれは、確実にリアルだ。 分かる。 バカな私でも、痛いほどに、分かる。 一連の流れとしてはツナガラナイ。 けれども、人間として生活していく中で、誰しもが カンジル感情ではないだろうか。と。 「嫌いになるなら明日が来たって意味ないじゃないか」 ・・・マリーの言葉忘れましたが 「そんなことはない。かぶれないようにお薬を塗るのよ」 「がんばって嫌われる努力をするの」 「嫌われて、安心するの」 ウェルテル(鳥)の得意技。「ふり」をする。 人間誰しも「ふり」をして生きているはず。 私もそう。実生活の90%くらいはふりをしているのではないかと思う。 死んだふりをすれば、皆が注目してくれるからと、死んだふりをするウェルテル。 喜んだふり。 死んだふり。 アオヤギは、マリーを愛していた。 本当に? 愛って何? 「どんなお前も受け止めるから」とカラ回るアオヤギ。 あーゆー人、いるよね。 人の役にたちたいというフナキ。 誰の役にもたったことがないというフナキ。 人は誰しも、誰かの役に立ちたいと願うもの。 お金より誠実なものを見せられないというアオヤギの父。 アオヤギの父も劇団部員なの? そして、息子と別れてくれとマリーに依頼しにきたにも関わらず 自分もマリーと関係を持つ、アオヤギの父。 浅ましい。 ケンイチ君。 ナオヤに刺されて。 バルコニーから落ちていきながら、「ごめん」と謝ったというケンイチ君。 多分、そこで、謝るような人だから、ナオヤは刺してしまったんだ。きっと。 ナオヤが盗んだ時計を自分の母からもらったと「お前が決めた」とナオヤに言い放ったケンイチ君。 とても冷たい言葉。 多分、事実だからこそ、冷たい言葉。 「お前が決めたんだ」 多分、ナオヤはケンイチ君に憧れていた。 そんな気がする。 ナオヤがケンイチ君を刺したこと。 それは、私なら、もう、今は連絡をとってないYちゃんを刺したことになるんだろう。 一家離散。 ケンイチ君がいなくなって一家離散。 家族って、たった一人が消えただけ離散するものなの? そんなもろいものなの? 人の絆なんて、もろいもの。 四国へ引っ越した。 全員で死の国へ引っ越した? 人間の愚かさ。 いろんな哀しみ。 そう、哀しみ。 明日なんてこなければいい。 嫌いになる明日なんて。 でも確実にくる。明日は確実にくる。嫌いになる明日は確実にくる。 こないようにするには、殺してしまうしかない。 死んでしまうしかない。 「時間のとめっこしてただけじゃないか」 嫌いにならないように、好きなままでいられるように。 もしかして、マリーもアオヤギも、ナオヤが殺した? ・・・そもそも、存在しないかもしれないけれど。 現前化しない愛の物語。 目の前に現れない愛。 私はこの世に愛なんて存在しないと思っている。 人生の「意味」と同じ。 それは、幻。 人間は、ないものを必死に求める。 きっと、傍からみたら、こっけいだ。 人間は、皆こっけい。 「あなたがいやらしいのは、夢を見ているからよ」 突然現れる「いやらしい」という言葉。 夢? もしかして、これは、全て夢? 正気の世界か狂気の世界か夢なのか現実なのか。 その場所がどこであろうと、感じる「感情」だけは、確実にリアルだ。 朝起きて、目が覚めて。 「起きている」状態で「現実世界」で起こる数々の出来事。 そのなかで感じる数々の感情。 夜が来て、眠りについて。 「寝ている」状態の「夢の中」で起こる数々の出来事。 そのなかで感じる数々の感情。 「正常な脳の状態」で感じる感情。 「狂ってしまった人の脳の状態」で感じる感情。 私は狂ったことがないので断言できないけれど、多分、喜怒哀楽は同じではないだろうか。
無理やり解釈する必要もないのかもしれない。 機会があるのならば、もし再演があるのならば、下準備をしてから、 もう一度鑑賞したい舞台ではあるけれど 今、その機会がないという状態の中で、解釈できないことを嘆くことなく、 無理やりつなげることなく、 今のこの私の中にある「感情」。 それが、全てなのだと、そう思う。
長すぎる前置きをおいて。 シブヤから遠く離れて。 この舞台で私が感じたのは、ただひたすら「哀しみ」でした。 いろんなカタチのいろんな種類の、いろんないろんな哀しみ。 100人いたら100通りの答えが出るパズル。 どれも正解。 不正解はなし。 そんな。そんな感情を抱いた舞台でした。 と、お話を見て思ったのは上記のようなものでしたけど。 とにかく二宮君の演技がすごかった。 杉本さんは、かみすぎていたし小泉さんは、正直私には、しっくりこなかった。 一人、演劇部の発表会のようでした。 勝地君や、勝村さんが、とても・・・こんな風にいうとおこがましいですが「よかった」です。 でも、やはり、表情が素晴らしかったので遠くの席からだと、双眼鏡を使わないと よさが分かりにくいんですよ。 だから、ニノは、映画のスクリーンの方が向いているような気もしました。 あ。でも決して舞台に不向きというわけではないですよ。 舞台も、本当に素晴らしかったです。 |